武蔵野日記

しがない学生の日記です

【こどもの日】子ども時代の愛読書リスト10選

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今日は5月5日、こどもの日。

もう子どもとはいえない21歳だけど、逆に自分がどんな子どもだったかをやっと振り返られる時期に来たともいえる。

僕は友だちとワイワイ遊ぶような男子ではなかった。精神的に打たれ弱く、他人と関わるのが面倒で、身体を動かすのを全力で避ける人だった。今と大差ない。

その代わり好きだったのは、図書室か教室で本を読んで過ごすことだった。

人から邪魔されないという理由が大きくもあるけど、物語の世界へ静かに潜っている時間が、あの頃は一番楽しかった気もする。

せっかくのこどもの日。幼い頃に自分が好きだった物語本を、年代順に思い出していく。

 

①『銀河鉄道の夜
宮沢賢治原作、藤城清治影絵(講談社 1982)

銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜

 

たぶん人生で最初に触れた宮沢賢治の本。影絵作家、藤城清治さんが手がけた影絵劇を絵本にしたもの。文章は子ども向けに変えられている。優しくもどこか悲しい色と光に満ちた銀河世界は、幼い心にも深く印象付いた。

 

②『落語絵本 じゅげむ』
川端誠(クレヨンハウス 1998)

落語絵本 四 じゅげむ (落語絵本 (4))

落語絵本 四 じゅげむ (落語絵本 (4))

 

「落語絵本」シリーズ第4弾。落語の語りの面白さを自然に絵本化。この本のおかげで寿限無の名前は今も暗唱できる。同シリーズでは『めぐろのさんま』もお気に入り。

 

③『かいけつゾロリ ちきゅうさいごの日』
原ゆたかポプラ社

 小学生から絶大な支持を誇るゾロリシリーズ。個人的に一番好きだったのはこの1冊だった。なぜだろう…多分一番バカバカしかったからかな…。

 

④『ルドルフとイッパイアッテナ
斉藤洋作、杉浦範茂絵(講談社 1987)

ルドルフとイッパイアッテナ

ルドルフとイッパイアッテナ

 

ひょんなことから遠い街へ迷い込んだ子猫のルドルフが、ちょっと怖いけど頭の良い野良猫・イッパイアッテナと出会い、猫社会の中で成長していく。近頃アニメ化されたけど、上のデザインの印象が強いので何とも言えない気持ち。


『ルドルフとイッパイアッテナ』予告2

 

⑤『チョコレート戦争』
大石真作、北田卓史絵(理論社 1965/愛蔵版 1999)

チョコレート戦争 (新・名作の愛蔵版)

チョコレート戦争 (新・名作の愛蔵版)

 

 地元のケーキ屋・金泉堂のショーウィンドウを割った…と濡れ衣を着せられた子どもたちが、分かってくれない大人へ戦いを挑む。 ただの勧善懲悪じゃなくて、子どもも大人も良いキャラ。個人的には中盤、主人公が例のケーキ屋の「エクレア」の誘惑と戦うシーンが好き。時代を超えて面白いです。

 

⑥『イソップ童話 ※上下巻
二宮フサ訳(偕成社文庫 1983)

イソップ童話(上) (偕成社文庫2072)

イソップ童話(上) (偕成社文庫2072)

 

シンプル・イズ・ベストな内容と装丁。1話が2ページほどでスラスラ読めるし、版画のイラストが綺麗。個人的に印象深いのは、「すっぱいぶどう」「北風と太陽」「エチオピア人を白く洗う」(この本での題がどうなっていたかは思い出せず)。結構エグい話も多い。

 

⑦『それいけズッコケ三人組
那須正幹作、前川かずお絵(ポプラ社 1978/文庫版 1983)

それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫―ズッコケ文庫)

それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫―ズッコケ文庫)

 

「ズッコケ」シリーズ第1弾。ハチベエハカセ・モーちゃん、個性がとっ散らかりそうなのに仲良く冒険する三人組の物語。クラスにこんな奴らが居れば楽しいだろうなと思っていた(巻き込まれたくはないけど)。1年に2冊刊行、それを人気を保ちながら25年間続けたって凄いな…。

 

⑧『名探偵ホームズ 赤毛組合』
コナン・ドイル作、日暮まさみち訳(講談社青い鳥文庫 2010〈新装版〉)

青い鳥文庫版「ホームズ」第1弾。これでハマッて全巻読んだ。ロンドンの風情は分かりづらかったけど、丁寧な解説付きで助かった。本当はこの新装版ではなく、若菜等+Kiさんのイラストによる旧版を紹介したい(下画像)。もう古本で買うしかありませんが。

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⑨『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』
斉藤惇夫作、薮内正幸画(岩波書店 1982/岩波少年文庫 2000)

冒険者たち ガンバと15ひきの仲間 (岩波少年文庫044)

冒険者たち ガンバと15ひきの仲間 (岩波少年文庫044)

 

小5の学芸会の演目だったので読んだ。島を荒らす凶暴なイタチに立ち向かうネズミたちの物語。イタチのリーダー・ノロイの残虐性と、ガンバと島のネズミたちの勇気に震える。テレビアニメガンバの冒険(1975)や映画GAMBA ガンバと仲間たち(2015)の原作、と言ったほうが通じる人も居るかも。


映画『GAMBA ガンバと仲間たち』 主題歌PV

 

⑩『ジュニア版ファーブル昆虫記』 ※全8巻
奥村大三郎訳・解説(集英社 1991)

ジュニア版ファーブル昆虫記 1 ふしぎなスカラベ

ジュニア版ファーブル昆虫記 1 ふしぎなスカラベ

 

児童向けに易しく、でも豊富な図版と解説付きで昆虫の世界を伝えてくれるシリーズ。第1巻のスカラベ(≒フンコロガシ)は、ファーブル先生の愛が特に強そうに思えた。まるで虫のことは興味なかったけど、この本をきっかけに少し図鑑に手を出したりした。

『美女と野獣』に見えた「村人たち」の怖さ

ディズニーの持つ「夢」って、結局何なのか。

そう思い立ってここ3ヶ月、毎週ディズニーの長編アニメーション映画を観続けている。

愛は何よりも強い魔法で、信じ続ければ必ず夢は叶う…頭でディズニーのイメージは漠然と思い浮かべられるけど、やはり実際の物語を見ると、脳裏へ鮮明に刻み込まれる。それら映画が描く希望は、気が付けば生きていく上で忘れたくない宝物になっている。

 

けれどそうした「夢」の中に、時折鋭く心を刺す「リアル」が入り込んでくる。

先月僕は『美女と野獣』(原題:Beauty and the Beast、1991年)を観て、美のあふれる映像と楽曲に浸りながら、あまりにも現実に差し迫った恐怖を物語から感じてしまった。

 

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簡単に映画のストーリーを追う。

美男子だが傲慢なアダム王子は、魔女によって醜い野獣に姿を変えられた。一輪のバラが散るまでに「真実の愛」を見つけなければ、その魔法は解けない。絶望し荒んだ野獣は城に閉じこもる。

そこに現れる美しく聡明な娘・ベル。読書と空想好きなこの少女は、父が野獣の館に捕らえられた身代わりとしてそこに住むこととなる。

野獣は酷く無礼かつ乱暴で、ベルは耐えかねて逃げ出すが、雪の降る森で狼に襲われたところを野獣に助けられる。これをきっかけに2人は惹かれあう…。

 

しかし2人に立ちふさがる男が居る。村の狩人・ガストンだ。

彼は姿こそマッチョで勇ましいが、中身はどうしようもない。粗野で礼儀というものを知らず、筋肉による男らしさだけを誇る(真の意味で「野獣」)。そしてベルに惚れこみ、彼女が自分のものになる事を疑わない。

冒頭の歌「朝の風景」(Belle)を聴けば、その姿が分かる。

 


Beauty and the Beast "Belle" | Sing-A-Long | Disney

 

もちろんベルは彼を嫌う。だが、村人たちはガストンを信頼し、男も女も村中の憧れとして見つめる。彼らが根底に抱える歪みが、ここにさりげなく現れていると思う。

皆はガストンの本質を見抜けない。彼らにとって生活は狭い村の中だけで、価値観もそこで完結してしまう。だからベルのように外の世界を見つめて真の愛を願う精神は、理解しえないものなのだろう。

 

コミカルなオープニング・ナンバーだが、(少なくともベルには)村のどこか息苦しい空気を的確に表し切っている。

物語後半、それが恐ろしい展開へと豹変する。

 

病気の父を心配しベルは村へ帰るが、ガストンはそこで、彼女が野獣に惹かれていると悟り、怒り狂う。そして村人たちを煽動し、野獣がいかに自分たちに脅威となるかを吹聴する。

奴は村を荒らす、子どもをさらって食べる…。紛れも無いデマに、村人たちはすぐさま飲み込まれていく。

朗らかに日常を送るごく普通の村人たちが、何も正体の分からない野獣を、狭い世界の実力者の言うことを鵜呑みにして、恐れ、憎む。松明を手にして、野獣を殺しに向かう。「正義」の名の下に。

 

鳥肌が立った。

愛と魔法と夢であふれた映画の中で、このシーンはあまりにも現実だ。しかもこれは、僕らの国でしょっちゅう起こることではないのか。

 


08. The Mob Song | Beauty and the Beast (1991 Soundtrack)

 

上記のシーンは、「夜襲の歌」(The Mob Song)という曲に乗せて描かれる。数あるディズニー音楽の中でも、聞くのに勇気の居る楽曲だ。

サビの一節が、全てを物語っている。

We don't like what we don't understand
In fact, it scares us
And this monster is mysterious at least
Bring your guns, bring your knives
Save your children and your wives
We'll save our village and our lives
We'll kill the Beast!

 

得体知れぬものは
例え誰でも怖くてたまらない
だから殺せ
正義のためだと勇気を出して
戦え!

(訳詞:湯川れい子

 

「得体知れぬもの」は怖いから、殺す。

何も調べようとせず、自分の視界に入るだけの魅力ある実力者を信じて、それが「正義」の行為だと疑わない。

 

現実の話。

いつになっても「差別」「ヘイト」といった単語がニュースから消えないのはどうしてか、ずっと疑問だった。

直接害を及ぼす訳でもない、自分たちにとってただ「異質」に見える他人の排除(死)を願い、嘘を使ってでも悪意を増幅させる。そんな「正義」という名の不寛容が、なぜ世の中で生まれ続けるのか。

映画を観て、きっと、この村人たちの姿が答えだと思った。

 

 

indietokyo.com

作品の全楽曲を作詞したハワード・アッシュマン(1950-1991)は、映画公開の直前、エイズのため41歳の若さで亡くなった。

この映画の設定と楽曲を受け継ぎ、2017年にディズニーは実写版『美女と野獣』を公開した。上の記事はそれにあわせ記されたものだが、アッシュマンの遺した曲に込められた彼の苦しみが分かる。

アッシュマンはゲイだった。当時、LGBTQに対する人々の偏見と悪意は凄まじく、彼はその中を生き抜かなくてはならなかった。

 

煽動される村人たちと「夜襲の歌」の恐怖は、彼にとっての現実社会をそのまま抉り取ったものなのだろう。

アニメ版と実写版、双方の製作者であるドン・ハーンの証言を引く。

ハワード(・アッシュマン)は同時期にエイズと闘っていました。Kill the Beastの歌曲はほぼそのメタファーだったのです。彼は衰弱していく病に侵されていました。スティグマが存在した当時、人々が気づかないような映画に込められた基盤となるものが多くありました。人々は気づくべきではなかったのです。HIVの流行に関する映画ではなかったからです。しかし、アッシュマンという人物、彼の闘病を知った上で、歌詞を振り返れば、彼が何を経験したのかが分かるのです。

 

 

ディズニーの物語は、いつだって夢の叶うハッピーエンドだ。王子と従者たちは元の姿に戻り、ベル(と父親)は村を離れ、王子の城で幸せに暮らし続ける。

けれどこの作品を見終わって、一抹の不安が残った。

村に残された人々は、この先どう生きていくのだろう。

 

まったく未知に対する憎悪と不安に駆り立てられたあげく、たくさんのものを失った(ある意味精神的支柱であったガストンも)。

そんな彼らは結局、自分たちの行為に対する恐ろしさを自覚できるのだろうか。それとも、古く狭い社会の人間として、何も変わらず無理解と差別の意識を底に眠らせて暮らすのか。

「ボンジュール、ボンジュール!」と陽気に歌う村人たちを見るのが、妙に辛くなってしまった。

「好き」を語る人が好き

漫画原作者小池一夫さんが先月、最高のツイートをしていた。

 

本当にその通りで、自分の中にある「好き」は、生きる上で最も大事な宝物のひとつだ。

それが人に対してでも、小説や音楽などの何か作品に対してでも、とにかく「好き」の気持ちは、果てなく続く苦しい生活を積み重ねていくために欠かせない。

 

けど僕は、それと同じくらい素敵なものがあると思う。

自分以外の誰かが、その人自身の「好き」について語る姿だ。

 

「好き」なことについて誰かに語る時のテンションの上がりようは、我ながら怖い。

普段はこもった声で呟くように話してばかりなのに、一度話題がそこに及ぶと、まるで自分じゃないような饒舌になる。伝えたい「好き」が頭の中で渦巻いて、一気に言葉として流れる。そして、相手が呆然とこちらを見ていると気づくまで止まらない。

自分の話として考えると何だか気恥ずかしい。けど、他の誰かがそうなっているのを見ると、妙に心を打たれる。

 

例えば、

一緒に演劇を見た友人が、いつになく笑顔で「良かった」と呟いて、静かに感動してから好きなポイントを一気に語り尽くすこと。

普段物静かであまり目立たない子が、好きなディズニー作品の話を聞いた途端、目をキラキラさせて喋り出すこと。

 

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誰かが「好き」を語る瞬間、不思議な力が伝わってくる。

何と言うのが適切か分からないけど、それはものすごく温かい、生身の人間らしい力だと思う。

せわしなく不安定な世の中を生きていると、どうしても他人との関わりは表面的になりがちで、気付けば孤立しそうになる。せっかく何重もの偶然によって知り合えた人でも、そっけなく、冷たく通り過ぎてしまうことがよくある。

もったいなくて、悔しかった。

 

でも、何かの拍子に誰かの「好き」に触れられたなら、その人の素敵さを初めて分かることができる。

今を生きていて、この人と出会えて、意味があったんだと思える。

僕はその実感を求めて、今日も誰かの「好き」を聞きに行こうとする。

他人の痛みが分からない正義感

せいぎかん【正義感】

正義を尊ぶ感情。不正なことを見て義憤を感じる気持ち。 「 -が強い」

(「大辞林 第三版」三省堂) 

 

人間にはそれぞれの正義感がある。

何を持って不正となし、憤って行動に出るかは、人によって驚くほど異なる。政治や社会の問題、あるいは趣味に至るまで、その人の生き方や立場だからこその正義感がある。だから違う人間同士、正義感同士がぶつかり合う。

結局僕らは正義感の違いを了解しつつ、何とか折り合わせることで生きていく。そんな気がする。

 

けれど、ただ一つ確信を持って言えるのは、

「無断での路上ライブ禁止を訴えるために、演奏している人から買ったCDを目の前で壊して嘲笑う」

そんな正義感は、何があろうと分かち合えないということだ。

 

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1月14日、上記の通りの動画がTwitterに投稿され、凄まじい炎上を巻き起こした。

女性シンガーソングライターの路上ライブを聞いていた男性が、手作りのCDを購入した。女性が「ありがとうございます」と言うやいなや、CDを地面に叩きつけ、踏みつけ、破壊した。最後には撮影者の笑う声も聞こえる。

ここまで気分が悪くなる動画もない。元ツイートのリンクを載せるべきかもしれないが、したくない。誰からも構われなくなって消えてほしい。

 

news.livedoor.com

CDを壊した男性は、事件後も何食わぬ顔でTwitterを動かし、またテレビニュースのインタビューにも応じた。これは22日放送のTBS系「ビビット」を基にした記事である。実際の放送も見た。

そこで語られたのは、一連の行為が彼の中の「正義感」によるという話だった。

 

動画を撮影した動機については「路上ライブを許可なしでやっている方をやめさせたい。撲滅というと過激ですけど」と説明。モラルについては「すこし逸脱しているなとは思っています。ただ、そこまでしないと分かっていただけない現状があるので、僕の中での正義感で動いている感じ。結局、必要悪」と話し、女性に謝罪する意志はないとした。(太字:引用者)

 

この男性は、許可無く路上ライブが行なわれ続ける現状に不満を抱き、こうした行為を以前から繰り返していたという。それは「僕の中の正義感」によってのことだ。

正義のためなら、モラルを逸脱しても良い。これだけ聞くと、小説や映画のダークヒーローの姿にも重なる。

けれどそれが、誰かが心を込めて生み出した創作物を、目の前で殺しても良いことになるのだろうか。

 

そうしてまで叶えたい「正義」って何なのだろう。

こんな行為から生まれる、無断路上ライブの無い社会が、どれほど歪んだものになるか、考えも及ばないのだろうか。

 

他人の痛みが分からない正義感。僕は、その正義感に抗える正義感を持ち続けて生きる。

人生で見た全映画を書き出す(随時更新)

最終更新:2019/01/24 洋画追加

 

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自分は今までの人生で、どれだけの映画を味わったのか。

21歳になって、記憶だけを頼りにこれまで(ちゃんと)鑑賞した全映画作品をメモ帳に綴り始めた。

僕は映画が好きで、今や曲がりなりにも映像の仕事を引き受けるようになった。けれどそれらはどのように自分の人生に食い込み、血肉となっているのか。案外分からない。

映画の世界に飛び込み、光り輝く登場人物たちに魅せられ、心を通わせた時間。

そうした素敵な瞬間を忘れるのは悔しいので、今の自分はどこまで思い出せるのか、挑戦しようと思います。できればこれからも。

(と言いながら実は鑑賞数多くないです)

 

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死にたいはずだった夜

今週のお題「2019年の抱負」

 

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人間関係の事情や仕事の多忙により、この冬は今までに無いほどの精神的ダメージを抱えて生きてきた。

大切なものが抜け落ちた跡を埋めるようにやるべきことを増やして、その最中は楽しいのだけど、気を抜くとただ落ち込んで、そんなサイクルが出来上がってしまった。こうして自覚できているだけマシになったと信じたいが、今でも一度思いつめてしまうと、(必要に迫られて)気持ちを元の水平線に戻すのが苦痛だ。

 

そんな夜だった。仕事を一段落させ、借りたDVDを返しにTSUTAYAのある地元のショッピングモールへ出かけた。時刻は22時ごろ。TSUTAYA以外の店舗はもう閉店していて、敷地内は閑散としていた。

光り輝くクリスマス用のイルミネーション。子ども向けの自動販売機から鳴るアンパンマンの元気な声。店の入口前を堂々と渡り歩く猫。誰も居ない空間なのにそうした眩しさが僕を取り囲んだ。

突き刺すような寒空の下、涙が滲んで、あわててTSUTAYAへ逃げ込んだ。めったにない、心の底から「死にたい」と思った瞬間だった。

今の自分を見るような、からっぽの悲しい明るさ。勝手に感情を増幅させただけかもしれないが、その時の僕には辛すぎた。

 

あと少しの勇気と環境があればきっと危なかったけど、そこはたまたまTSUTAYAだった。人生の楽しいも悲しいも全て飲み込んでくれるような、何十年にも渡る映画と音楽の山がある場所だった。

結局僕に降った恐ろしい願望は、比べ物にならない量の希望に打ち消された。ディズニー映画を1本借りた。

ノートルダムの鐘 [DVD]

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「2019年、あなたの抱負は?」――

結局、数分間の自分の心でさえどう転がるか分からないと思い知りました。辛くたって長い目で待ってみよう、と思います。

 

来年もぽつぽつ書くかもしれません。皆様も良いお年を。

改札前の「じゃあね」

すっかり夜も更けた頃、大きな駅の改札前。ついさっきまで一緒に楽しくお喋りしていた隣の人は、別の路線に乗って行ってしまう。僕はそこで、「じゃあね」の一言を絞り出すのがたまらなく惜しくなる。いつまでも時間を使って喋ろうとする…。

こんな経験が、特に大学に入ってからは何度もある。それも、同じ学部やサークルなど、その気になればすぐ会えるような人ほど強く感じる。

帰る前は(仲が良いからではあるけど)そんなに話すこともなかったはずが、どこか必死に他愛のない話をつなげている僕が居る。きっと迷惑かもしれないと思いながらも、なかなか止められない。

どうしてなのか、自分でも分からなかった。

 

そんな思いを浮かび続けていた夏のある日、親しい人とご飯に行く機会があった。

駅に着いて僕が例の状態になってしまうと、その人は不思議そうに僕を笑った。「こんなに寂しがるの、珍しいタイプだと思う」。自覚があるだけ改めて指摘されると恥ずかしかったから、あなたはどうなの、と僕は聞いた。

「私は、『また会えるし』と思うから」

…そうか、そんな思い方もできるんだ。

「またこの人に会える」と感じられる別れって、すごく幸せなことじゃないか。結局僕は、一人で帰ろうとするたび、ただその確証を求めてもがいていた。

 

駅の改札で、その人へありったけのお礼を込めて、「じゃあね」と手を振る。けどその時以来、「またね」と付け加えて言うことが多くなった。

辛いけれど、また会えるんだと言葉にすれば、幸せな夜になるはずだ。

 

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