「好き」を語る人が好き
好きな人がいっぱいいる人は、好きなことがいっぱいある人は、人生が深刻化しません。深刻になって行き詰っているときは、とても視野が狭くなって「好き」が無い状態です。「真剣になれ、深刻になるな」。おはようございます。
— 小池一夫 (@koikekazuo) January 21, 2019
本当にその通りで、自分の中にある「好き」は、生きる上で最も大事な宝物のひとつだ。
それが人に対してでも、小説や音楽などの何か作品に対してでも、とにかく「好き」の気持ちは、果てなく続く苦しい生活を積み重ねていくために欠かせない。
けど僕は、それと同じくらい素敵なものがあると思う。
自分以外の誰かが、その人自身の「好き」について語る姿だ。
「好き」なことについて誰かに語る時のテンションの上がりようは、我ながら怖い。
普段はこもった声で呟くように話してばかりなのに、一度話題がそこに及ぶと、まるで自分じゃないような饒舌になる。伝えたい「好き」が頭の中で渦巻いて、一気に言葉として流れる。そして、相手が呆然とこちらを見ていると気づくまで止まらない。
自分の話として考えると何だか気恥ずかしい。けど、他の誰かがそうなっているのを見ると、妙に心を打たれる。
例えば、
一緒に演劇を見た友人が、いつになく笑顔で「良かった」と呟いて、静かに感動してから好きなポイントを一気に語り尽くすこと。
普段物静かであまり目立たない子が、好きなディズニー作品の話を聞いた途端、目をキラキラさせて喋り出すこと。
誰かが「好き」を語る瞬間、不思議な力が伝わってくる。
何と言うのが適切か分からないけど、それはものすごく温かい、生身の人間らしい力だと思う。
せわしなく不安定な世の中を生きていると、どうしても他人との関わりは表面的になりがちで、気付けば孤立しそうになる。せっかく何重もの偶然によって知り合えた人でも、そっけなく、冷たく通り過ぎてしまうことがよくある。
もったいなくて、悔しかった。
でも、何かの拍子に誰かの「好き」に触れられたなら、その人の素敵さを初めて分かることができる。
今を生きていて、この人と出会えて、意味があったんだと思える。
僕はその実感を求めて、今日も誰かの「好き」を聞きに行こうとする。