武蔵野日記

しがない学生の日記です

『美女と野獣』に見えた「村人たち」の怖さ

ディズニーの持つ「夢」って、結局何なのか。

そう思い立ってここ3ヶ月、毎週ディズニーの長編アニメーション映画を観続けている。

愛は何よりも強い魔法で、信じ続ければ必ず夢は叶う…頭でディズニーのイメージは漠然と思い浮かべられるけど、やはり実際の物語を見ると、脳裏へ鮮明に刻み込まれる。それら映画が描く希望は、気が付けば生きていく上で忘れたくない宝物になっている。

 

けれどそうした「夢」の中に、時折鋭く心を刺す「リアル」が入り込んでくる。

先月僕は『美女と野獣』(原題:Beauty and the Beast、1991年)を観て、美のあふれる映像と楽曲に浸りながら、あまりにも現実に差し迫った恐怖を物語から感じてしまった。

 

f:id:musashinonikki:20190215020420j:plain

 

簡単に映画のストーリーを追う。

美男子だが傲慢なアダム王子は、魔女によって醜い野獣に姿を変えられた。一輪のバラが散るまでに「真実の愛」を見つけなければ、その魔法は解けない。絶望し荒んだ野獣は城に閉じこもる。

そこに現れる美しく聡明な娘・ベル。読書と空想好きなこの少女は、父が野獣の館に捕らえられた身代わりとしてそこに住むこととなる。

野獣は酷く無礼かつ乱暴で、ベルは耐えかねて逃げ出すが、雪の降る森で狼に襲われたところを野獣に助けられる。これをきっかけに2人は惹かれあう…。

 

しかし2人に立ちふさがる男が居る。村の狩人・ガストンだ。

彼は姿こそマッチョで勇ましいが、中身はどうしようもない。粗野で礼儀というものを知らず、筋肉による男らしさだけを誇る(真の意味で「野獣」)。そしてベルに惚れこみ、彼女が自分のものになる事を疑わない。

冒頭の歌「朝の風景」(Belle)を聴けば、その姿が分かる。

 


Beauty and the Beast "Belle" | Sing-A-Long | Disney

 

もちろんベルは彼を嫌う。だが、村人たちはガストンを信頼し、男も女も村中の憧れとして見つめる。彼らが根底に抱える歪みが、ここにさりげなく現れていると思う。

皆はガストンの本質を見抜けない。彼らにとって生活は狭い村の中だけで、価値観もそこで完結してしまう。だからベルのように外の世界を見つめて真の愛を願う精神は、理解しえないものなのだろう。

 

コミカルなオープニング・ナンバーだが、(少なくともベルには)村のどこか息苦しい空気を的確に表し切っている。

物語後半、それが恐ろしい展開へと豹変する。

 

病気の父を心配しベルは村へ帰るが、ガストンはそこで、彼女が野獣に惹かれていると悟り、怒り狂う。そして村人たちを煽動し、野獣がいかに自分たちに脅威となるかを吹聴する。

奴は村を荒らす、子どもをさらって食べる…。紛れも無いデマに、村人たちはすぐさま飲み込まれていく。

朗らかに日常を送るごく普通の村人たちが、何も正体の分からない野獣を、狭い世界の実力者の言うことを鵜呑みにして、恐れ、憎む。松明を手にして、野獣を殺しに向かう。「正義」の名の下に。

 

鳥肌が立った。

愛と魔法と夢であふれた映画の中で、このシーンはあまりにも現実だ。しかもこれは、僕らの国でしょっちゅう起こることではないのか。

 


08. The Mob Song | Beauty and the Beast (1991 Soundtrack)

 

上記のシーンは、「夜襲の歌」(The Mob Song)という曲に乗せて描かれる。数あるディズニー音楽の中でも、聞くのに勇気の居る楽曲だ。

サビの一節が、全てを物語っている。

We don't like what we don't understand
In fact, it scares us
And this monster is mysterious at least
Bring your guns, bring your knives
Save your children and your wives
We'll save our village and our lives
We'll kill the Beast!

 

得体知れぬものは
例え誰でも怖くてたまらない
だから殺せ
正義のためだと勇気を出して
戦え!

(訳詞:湯川れい子

 

「得体知れぬもの」は怖いから、殺す。

何も調べようとせず、自分の視界に入るだけの魅力ある実力者を信じて、それが「正義」の行為だと疑わない。

 

現実の話。

いつになっても「差別」「ヘイト」といった単語がニュースから消えないのはどうしてか、ずっと疑問だった。

直接害を及ぼす訳でもない、自分たちにとってただ「異質」に見える他人の排除(死)を願い、嘘を使ってでも悪意を増幅させる。そんな「正義」という名の不寛容が、なぜ世の中で生まれ続けるのか。

映画を観て、きっと、この村人たちの姿が答えだと思った。

 

 

indietokyo.com

作品の全楽曲を作詞したハワード・アッシュマン(1950-1991)は、映画公開の直前、エイズのため41歳の若さで亡くなった。

この映画の設定と楽曲を受け継ぎ、2017年にディズニーは実写版『美女と野獣』を公開した。上の記事はそれにあわせ記されたものだが、アッシュマンの遺した曲に込められた彼の苦しみが分かる。

アッシュマンはゲイだった。当時、LGBTQに対する人々の偏見と悪意は凄まじく、彼はその中を生き抜かなくてはならなかった。

 

煽動される村人たちと「夜襲の歌」の恐怖は、彼にとっての現実社会をそのまま抉り取ったものなのだろう。

アニメ版と実写版、双方の製作者であるドン・ハーンの証言を引く。

ハワード(・アッシュマン)は同時期にエイズと闘っていました。Kill the Beastの歌曲はほぼそのメタファーだったのです。彼は衰弱していく病に侵されていました。スティグマが存在した当時、人々が気づかないような映画に込められた基盤となるものが多くありました。人々は気づくべきではなかったのです。HIVの流行に関する映画ではなかったからです。しかし、アッシュマンという人物、彼の闘病を知った上で、歌詞を振り返れば、彼が何を経験したのかが分かるのです。

 

 

ディズニーの物語は、いつだって夢の叶うハッピーエンドだ。王子と従者たちは元の姿に戻り、ベル(と父親)は村を離れ、王子の城で幸せに暮らし続ける。

けれどこの作品を見終わって、一抹の不安が残った。

村に残された人々は、この先どう生きていくのだろう。

 

まったく未知に対する憎悪と不安に駆り立てられたあげく、たくさんのものを失った(ある意味精神的支柱であったガストンも)。

そんな彼らは結局、自分たちの行為に対する恐ろしさを自覚できるのだろうか。それとも、古く狭い社会の人間として、何も変わらず無理解と差別の意識を底に眠らせて暮らすのか。

「ボンジュール、ボンジュール!」と陽気に歌う村人たちを見るのが、妙に辛くなってしまった。